年譜
プロフィール
植物学者 牧野富太郎博士(1862-1957)
牧野富太郎博士は、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれました。高知の豊かな自然に育まれ、幼少から植物に興味を持ち、独学で植物の知識を身につけていきました。2度目の上京のとき、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込むようになります。自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけました。94年の生涯において収集した標本は約40万枚といわれ、蔵書は約4万5千冊を数えます。新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。現在でも研究者や愛好家の必携の書である「牧野日本植物図鑑」を刊行。全国からの要望に応じて各地を巡り、植物を知ることの大切さを一般に広く伝え、植物知識の普及にも尽力しました。1953年東京都名誉都民。1957年文化勲章受章。
年譜
文久2(1862) 4月24日 |
現在の高知県高岡郡佐川町で酒造と雑貨を営む裕福な商家、岸屋の一人息子として生まれる。幼名を成太郎と言う。 |
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慶応元(1865) 3歳 |
父、佐平死去。 |
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慶応3(1867) 5歳 |
母、久寿死去。 |
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慶応4(1868) 6歳 |
祖父、小左衛門死去。この頃、富太郎と改名。祖母、浪子に育てられる。 |
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明治5(1872) 10歳 |
土居謙護の寺子屋で習字を学ぶ。 |
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明治6(1873) 11歳 |
伊藤徳裕(蘭林)の塾で漢学、名教館で西洋の諸学科を学んだほか、英語学校で英語を学ぶ。後の妻、小澤壽衛生まれる。 |
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明治7(1874) 12歳 |
佐川小学校に入学。 |
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明治9(1876) 14歳 |
この頃、小学校の授業に飽き足らず自主退学。採集した植物を「重訂本草綱目啓蒙」などで調べ植物の名前を覚える。 |
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明治10(1877) 15歳 |
佐川小学校の臨時教員となる。昆虫にも興味を持ち採集する。 |
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明治12(1879) 17歳 |
佐川小学校の臨時教員を辞め高知市へ出る。弘田正郎の五松学舎に入塾する。 |
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明治13(1880) 18歳 |
植物の観察図や観察記録をつくる。高知中学校教諭の永沼小一郎を知り欧米の植物学の影響を受ける。 |
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明治14(1881) 19歳 |
顕微鏡や書籍を購入するため上京。第二回内国勧業博覧会見物のほか、農商務省博物局に田中芳男、小野職愨らを訪ね、日光などで植物採集し帰郷する。高知県西南部で植物採集を行う。 |
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明治15(1882) 20歳 |
小野職愨、理学博士の伊藤圭介に植物の質問の手紙を出す。この頃、自由民権運動にたずさわる。 |
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明治17(1884) 22歳 |
二度目の上京。東京大学理学部植物学教室を訪ね、教授の矢田部良吉と助教授の松村任三を知り、教室への出入りが許される。 |
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明治18(1885) 23歳 |
高知県西南部ほかで植物採集を行う。 |
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明治19(1886) 24歳 |
三度目の上京。東京近郊で植物採集を行う。この頃、石版印刷技術を習得する。 |
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明治20(1887) 25歳 |
「植物学雑誌」の創刊に携わる。祖母、浪子死去。 |
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明治21(1888) 26歳 |
四度目の上京。この頃、壽衛と東京根岸に所帯を持つ。「日本植物志図篇」刊行を始める。 |
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明治22(1889) 27歳 |
「植物学雑誌」第3巻第23号に大久保三郎と日本で初めて新種ヤマトグサに学名を付ける。 佐川理学会発足。 横倉山でコオロギラン発見。マキシモヴィッチに標本を送る。 |
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明治23(1890) 28歳 |
現在の東京都江戸川区でムジナモを発見する。植物学教室への出入りを禁止され、マキシモヴィッチを頼りロシア行きを決意する。 |
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明治24(1891) 29歳 |
マキシモヴィッチの死去によりロシア行きを断念する。実家整理のため帰郷。高知県下で植物採集を行う。 |
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明治26(1893) 31歳 |
帝国大学理科大学嘱託、臨時雇用を経て助手となる。 京都府、愛知県、岐阜県、滋賀県、高知県へ植物採集のため出張命令が出る。 |
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明治27(1894) 32歳 |
京都府、愛知県、滋賀県、静岡県へ植物採集のため出張命令が出る。 |
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明治29(1896) 34歳 |
台湾へ植物採集のため出張命令が出る。 |
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明治32(1899) 37歳 |
「新撰日本植物図説」刊行を始める。 |
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明治33(1900) 38歳 |
農事試験場嘱託となる。「大日本植物志」刊行を始める。 |
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明治34(1901) 39歳 |
「日本禾本莎草植物図譜」「日本羊歯植物図譜」刊行を始める。 |
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明治39(1906) 44歳 |
滋賀県、岡山県、鳥取県、福岡県の各地で植物採集会を指導する。 |
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明治40(1907) 45歳 |
東京帝室博物館嘱託となる。「増訂草木図説」刊行を始める。 |
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明治42(1909) 47歳 |
横浜植物会が創立される。会の指導に当たる。 |
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明治43(1910) 48歳 |
東京帝国大学理科大学助手の休職を命じられ、同大学の植物調査嘱託となる。 |
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明治44(1911) 49歳 |
千葉県立園芸専門学校嘱託となる。東京植物同好会が創立され、会長となる。 |
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明治45(1912) 50歳 |
東京帝国大学理科大学講師となる。 |
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大正2(1913) 51歳 |
植物学者の白井光太郎、斎田功太郎、木村彦右衛門らとともに、来日したドイツの植物学者、エングラーと日光で植物採集を行う。岡山県、広島県、高知県で植物採集会を指導する。 |
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大正3(1914) 52歳 |
千葉県立園芸専門学校に辞表を提出する。神奈川県、岡山県、鹿児島県で植物採集会を指導する。 |
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大正5(1916) 54歳 |
素封家の池長孟から援助の申し出がある。「植物研究雑誌」を創刊。 |
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大正7(1918) 56歳 |
兵庫県神戸市に池長植物研究所が開設される。開所式に壽衛とともに出席する。 |
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大正11(1922) 60歳 |
成蹊高等女学校長の中村春二より支援を受ける。 |
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大正13(1924) 62歳 |
東京帝室博物館より解嘱される。伊勢神宮の植物調査を行う。 |
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大正15(1926) 64歳 |
壽衛の尽力により、現在の東京都練馬区東大泉に居を構える。 |
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昭和2(1927) 65歳 |
理学博士の学位を受ける。仙台で新種のササを発見する。 |
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昭和3(1928) 66歳 |
壽衛死去。新種のササに「スエコザサ」と命名する。 |
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昭和9(1934) 72歳 |
高知県中~東部で植物採集を行う。「牧野植物学全集」刊行を始める。 |
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昭和10(1935) 73歳 |
岡山県、大阪府、岐阜県、福井県、富山県で植物採集会を指導する。 |
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昭和11(1936) 74歳 |
高知帰郷。高知市近郊で植物採集を行う。 |
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昭和13(1938) 76歳 |
長崎県、鹿児島県、熊本県、福岡県、兵庫県、愛媛県、広島県、大阪府、高知県で植物採集を行う。 |
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昭和14(1939) 77歳 |
東京帝国大学へ辞表を提出、講師を辞任する。 |
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昭和15(1940) 78歳 |
広島県、愛媛県、大分県で植物採集会を指導する。大分県犬ヶ嶽で採集中に転落事故に遭い別府で静養する。「牧野日本植物図鑑」刊行。 |
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昭和16(1941) 79歳 |
現在の中国東北部へサクラ調査に赴く。池長植物研究所で保管されていた標本が返還され、華道家の安達潮花より標品館の寄付を受ける。 |
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昭和20(1945) 83歳 |
空爆により標品館の一部が被弾し、山梨県巨摩郡穂坂村に疎開する。 |
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昭和21(1946) 84歳 |
個人雑誌「牧野植物混混録」刊行を始める。 |
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昭和23(1948) 86歳 |
皇居に参内、昭和天皇に植物学をご進講。 |
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昭和24(1949) 87歳 |
大腸カタルで危篤となるも奇跡的に回復する。 |
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昭和25(1950) 88歳 |
日本学士院会員となる。 |
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昭和26(1951) 89歳 |
文部省に牧野博士標本保存委員会設置され、標本整理が始まる。第1回文化功労者となる。 |
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昭和27(1952) 90歳 |
佐川の生家跡に「誕生の地」の記念碑が建つ。 |
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昭和28(1953) 91歳 |
東京都名誉都民となる。 |
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昭和29(1954) 92歳 |
風邪をこじらせ肺炎となり病臥する。 |
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昭和30(1955) 93歳 |
東京植物同好会が牧野植物同好会として再開する。 |
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昭和31(1956) 94歳 |
高知県高知市五台山に牧野植物園設立決定。佐川町名誉町民となる。病状が悪化し重体となる。昭和天皇よりお見舞いのアイスクリームが届く。 |
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昭和32(1957) 94歳9か月 |
1月18日 永眠。東京都谷中の天王寺墓地に埋葬。没後、文化勲章を授与される。 |
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昭和33(1958) |
高知県立牧野植物園開園。 東京都立大学理学部牧野標本館開館。 練馬区牧野記念庭園開園。 |
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平成19(2007) |
没後50年 |
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平成24(2012) |
生誕150年 |
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令和4(2022) |
生誕160年 |